但馬 vs 丹後 ー古代文物の徹底比較!
当店前にある但馬国府・国分寺館にて、タイトルの特別展が9.11から11.11まで開催されているので、入館してきました。
第8回特別展 「但馬 vs 丹後 -古代文物の徹底比較!-」
但馬国府・国分寺館ニュース第38号によると、但馬(兵庫県北部)と丹後(京都府北部)は、古来より地理的・文化的なつながりが深く、盛んに交流が行われてきた。そのため、但馬と丹後はもともと一つの「クニ」だったとする説がある。(実際に大丹波ともいわれる但馬・丹後・丹波はひとつだったといわれ、京丹後市峰山町に丹波という地名が残されており、その中心は丹後にあったことが知られているが、丹後王国というより丹波王国なのであるが、国としての丹波との混乱を避けるため“丹後王国”としている)
今回の展覧会では、縄文時代から奈良時代までの文物を紹介し、古代における但馬と丹後の歴史的・地理的な特性を明らかにする。
展示品は、朝来市埋蔵文化センター所蔵の城ノ山古墳から出土した重文、三角縁獣文帯三神三重鏡・三角縁波〃、
茶すり山古墳 朝来市教育委員会
須恵器子持壺 京丹後市教育委員会
をはじめ、同館所蔵品に、いずし古代学習館・豊岡市立出土文化財センター・与謝野町教育委員会・京都府立丹後郷土資料館(宮津市)からの展示品が集められている。
●但馬・丹後の地形・地理
日本海沿岸には、天橋立のように砂州によって外海の荒い波が遮られた潟湖が多く形成されている。潟湖は天然の良港で、古代人の航海を助けていた。とくに、丹後には阿蘇海や竹野潟、離湖、久美浜湾など、多くの潟湖や入江があるため、丹後の古代人は広く日本海を漕ぎ渡り、各地と交流を深めていたと考えられている。
一方、但馬の海岸線は断崖が多く、天然の良港は限られている。大陸や沿岸各地との交流は、但馬より丹後のほうが活発で、大陸の先進文化はいち早く丹後にもたらされたと考えられる。これは、後に“丹後王国”が成立する大きな要因のひとつと言えるだろう。
●縄文時代 但馬・丹後の縄文時代
同じ縄文時代でも、但馬と丹後の遺跡の立地には違いがみられる。
但馬では、山間部など高地に居住し、狩猟・採集を中心とした生活を送っていたと考えられる集落遺跡が多く見つかっている。
→神鍋遺跡(豊岡市日高町)は、現代は多くの雪が降り積もる高原地帯にありながら、縄文時代草期から集落が営まれていた。
→一方、丹後では、平(へい)遺跡(京丹後市丹後町)などのように海岸部に多数の遺跡が営まれていたことが知られている。それらの違いは、生業や生活スタイルにも影響を及ぼしていたであろう。
●弥生時代前期~中期 “丹後王国”成立前夜 -丹後の巨大化-
但馬・丹後の弥生時代の遺跡からは、当時の最先端の文物であった鉄やガラス製品が多く出土し、日本海の交易により先進文化を得ていたと考えられている。
交易・流通網を掌り、貴重な文物を入手した権力者(王)は、より大きな権力を持つようになった。
但馬や丹後では、「方形貼石墓」という、中国地方を中心に分布している形態の墓が多く見つかっている。
ただし、丹後では日吉ケ丘1号墓(与謝野町)のように巨大な王墓が登場するのに対し、但馬には他を圧倒するほどの巨大墳墓はない。
→天然の良港が多く最先端の文化を得やすかった丹後の地理的特性が、勢力の巨大化を生んだと考えられる。
●弥生時代後期 “丹後王国”の成立 -王墓の威容-
弥生時代後期になると、妙楽寺古墳群(豊岡市妙楽寺)や三坂神社墳墓群(京丹後市大宮町)のように、丘陵の尾根上に連なる台状墓を築くようになる。棺の中には、鉄製の武器やガラス製の装身具、割った土器片が多く入れられていて、やがて但馬・丹後の新たな墓制として定着する。
弥生時代の終わり頃になると、丹後では全国でも有数の大型墳墓を築き、鉄・銅・ガラス・貝製品など大量の副葬品を納めるようになる。とくに赤坂今井墳墓(京丹後市峰山町)は、規模の大きさや副葬品の豪華さから、丹後のみならず但馬や丹波を含む広い地域を治めた王の墓と考えられている。
→一方、但馬には巨大な首長墓はないため、より大きな勢力は丹後にあったのであろう。
●古墳時代前期 “丹後王国”の隆盛 -日本海三大古墳の時代-
3世紀後半、畿内で巨大な前方後円墳が築かれ始め、古墳時代が幕を開ける。しかし、但馬・丹後の初期の古墳はいずれも小規模なものばかり。
→古墳時代初め頃には、ヤマト政権の支配はほとんど及んでいなかったようである
4世紀後半以降、丹後では「日本海三大古墳」(網野銚子山古墳、神明山古墳、蛭子山1号墳)とよぶ巨大な前方後円墳が築かれ、“丹後王国”は最盛期を迎える。
※付近の関連神社:網野神社(京丹後市網野町)、竹野神社(京丹後市丹後町)、大虫神社・小虫神社(与謝野町)
一方、但馬にはこの時期に築かれた前方後円墳はなく、丹後の優位性が際立っている。
●古墳時代中期 但馬の伸長 -池田古墳と茶すり山古墳-
5世紀前半、但馬では墳長141mの池田古墳が築かれた。池田古墳は、この時期としては日本海側最大の前方後円墳。
→ヤマト政権の影響下で但馬を支配した王の墓。但馬では、池田古墳以降、茶すり山古墳、船宮古墳など途切れることなく王墓が築かれ、ヤマト政権との政治的な距離の深さを知ることができる。
※付近の関連神社:粟鹿神社(朝来市)
一方、丹後は古墳の規模が小さくなり“丹後王国”の権勢は弱体化していった。5世紀後半のヤマト政権は、大陸との交流窓口を、丹後から但馬へ移したのかも知れない。
※付近の関連神社:小田井県神社(豊岡市)・絹巻神社(名神大海神社)
●古墳時代後期 ヤマト政権の支配 -横穴式石室の世紀-
6世紀以降、前方後円墳の築造が減り、横穴式石室をもつ円墳が多数造られるようになった。但馬・丹後の横穴式石室は、畿内で流行していたものと同じ形態であり、ヤマト政権の影響がリュ地域に深く浸透していたことが分かる。
但馬では、畿内の大王墓に匹敵する石室規模を有する大藪古墳群(養父市大藪)が、丹後では、金銅装大刀など優美な副葬品が多数出土した湯舟坂2号墳(京丹後市久美浜町)が、地域全体を支配していた王の墓と考えられている。なお、石室の規模や金銅副葬品の出土点数は但馬の方が優勢である。
→ヤマト政権が但馬をより重視していた?!
※付近の関連神社 養父神社(養父市)、衆良神社(京丹後市久美浜町須田)
●飛鳥時代~奈良時代 中央集権国家の誕生 -但馬国・丹後国の成立-
奈良時代(8世紀)、天皇を中心とした中央集権国家が完成すると、地方支配のための官衙が整えられ、文書行政も行き渡るようになった。(国衙(国府)・郡衙)また、仏教の普及とともに、各地で寺院が創建された(国分寺・国分尼寺)。寺院は、但馬・丹後ともに、各郡に1か寺ずつ築かれていたようである。
→但馬国は7世紀後半、丹後国は和銅6年(713)にそれぞれ丹波から分国。
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